明日は、内科のカンファで発表をすることになっている。
僕は、とある症例を夢中になって調べたところで、
どうしても見つけられないあと一つの資料を探していた。
その画像資料が、ここにならあるかもしれないと、ゲカイチの若手中心の医師控室を訪ねた。
通称「イカ部屋」。「タコ部屋」ではないということだろう。まったくシャレが効いている。
医局とは別に設けられたその部屋には、資料やトレーニング機材が豊富で、先生方の出入りも多い。
その異名が持つ何やら不穏な印象とは裏腹に、ここはいつも活気にあふれている。
ドアを開けると、若い先生方が数人見える。
ある者はせわしなく、ある者はのんびりとめいめいの時間を過ごしている。
そして、中でもとりわけさわやかな表情をした川口先生が僕を見つけ、声をかけてきた。
おー、桐野くん! バーベキュー以来だねえ。どうしたの?
ほら、こっち来て。
いつも気さくな先生だが、今日はひときわ笑顔が輝いているように思えた。
さしずめ、フルマラソンを完走したばかりのランナーといったところだろうか。
その表情は、えも言われぬ充実感に満ちていた。
ちょっと再建術後の内視鏡画像というのを探してるんですよ。
またマニアックなもの探してるんだね。
こだわりだしたら気になっちゃいまして。ありますかね。
あったかなあ。後で森熊先生が来るから聞いてみなよ。
はい!ありがとうございます。
ところで川口先生、今日は何かあったんですか?
あ、桐野君、分かっちゃった?いいね、いいねー。
この前、バーベキューでごいっしょした野口先生だ。
術前資料らしきものをチェックしながら、こちらに顔を向けて言った。
君の直感はすばらしいよ。
川口先生はね、
さっき初執刀で“大手術”を無事終わらせてきたばかりなんだよ。
いやいや。野口先生は大袈裟だよ。胆嚢摘出術っていうごく初歩的な手術ね。
そういうと、野口先生は僕に拍手を促すジェスチャーをした。
え? ほんとですか!?
すごいですね!川口先生。
川口先生は照れながらも、まんざらでもなさそうに、はにかんだ。
確かに胆嚢は初歩的な手術だけど、
川口先生は腹腔鏡下でやりきったんだからすごいよ。
腹腔鏡下での胆嚢摘出術。
それは腹腔鏡手術の第一歩だと、以前、森熊先生から聞いていた。
川口先生は今年入局なのに、もうそんな手術をしているのだ。
そのとおり。準備が大事なんですよ。
驚く僕に、回診後に立ち寄った江良井教授が説明をしてくれた。
胆嚢摘出術は虫垂炎と同様に、手術を学ぶ医師の導入となる手術だよ。
通常は開腹手術で最初に経験することが多いんだけどね。
医師の技量をきちんと吟味すれば、研修医でも任せる施設はある。
しかし、大学では難しい症例が多いから、単純な胆摘の手術症例は少ない。
若手でもそうそうチャンスに恵まれる手術ではないんだよ。
穏やかな口調で続ける。
今回、数少ないチャンスが回ってきたとき、川口先生はちゃんと準備ができていた。
だから、チャンスをものにして見事執刀医としてやりきることができたんだよ。
「準備」という文字が、僕の心にズシリと来た。
まぁ、僕だって明日の発表に向けて準備をしているのにはちがいない。
しかし、僕の準備と川口先生のそれとの間には、果てしもない差があるような気がする。
僕はその不安を埋める手がかりを探すように、先生方の顔を見渡した。