江良井教授は「チャンスと準備」というキーワードを置いて、控室を立ち去った。
僕は自分自身の現状を思うと、楽観的な想像をすることができなかった。
野口先生は、僕の不安を見て取ったのだろう。こう話しかけてきた。
川口先生はね、森熊先生の“腹腔鏡特訓塾”の模範塾生なのよ。
“腹腔鏡特訓塾”の模範塾生ですか。
そう、模範塾生。
あのさ、その呼び方やめない? こそばゆいよ。
彼は本気で照れていた。
そこにドライボックスあるだろう?
この人どんなに忙しくても疲れていても、毎日1回は必ず練習してるんだよ。
地味にすごいよね。僕も時々やってるけど、毎日はやってないもんなあ。
・・・僕は一度しかやったことがない。
今日の執刀医に選ばれたのも当然の話でさ。
森熊先生のお墨付きってやつよ。
川口先生は、いいかげんくすぐったかったのか、トレーニングの内容へと話題を変えた。
桐野君もドライボックスでのトレーニングは少しやったことあるだろう?
はい。このあいだやったばかりです。
腹腔鏡はトレーニングすればするだけ上達するのが分かるから、
純粋に面白いんだよ。
ドライボックスの練習だけじゃなくて、
達人の先生方の模範ビデオから学んだり、シュミレーターがあったり。
上達の手助けがいろいろあるわけだ。
他にはどんなものがあるんですか?
腹腔鏡の勉強会があってね。
技術向上を志す県内の先生方が集って、
互いの手術ビデオを公開しながら進めていく。
刺激的だよ。
噛み締めるようにうなずく僕に、
川口先生は、にこやかだけれどしっかりとした視線をまっすぐにこちらへ向けた。
とにかく、いろんな切り口で技術を高めていくことができるのが、
腹腔鏡の魅力だね。
川口先生は、以前、森熊先生にドライボックスでの結紮練習についてもらった話をしてくれた。
できないのが悔しくて、何本も針をもらって練習させてもらったのだとか。
最初からよくできたわけではなく、精進の賜物というわけだ。
あそこから始めて、執刀医まで。僕には、はるか遠い道のりに思えたものだよ。
川口先生は、「はるか遠い道のりに思えた」と言った。
ほんの10分前まで、僕と彼との間には、果てしもない差があるような気がしてならなかった。
しかし“準備”の中身を知った今、
“模範塾生”との距離はもっと近いように思えたのだから不思議なものだ。
ゲカイチでは、医局全体が若手の腹腔鏡トレーニングを支援してくれてるんだ。
だから僕は、研修医の頃からミニブタを使ったトレーニングに
何回も参加させてもらって、そこで何例か胆摘は経験してるんだよ。
準備万端だったんですね。
それでもさすがに初執刀医となると、練習とは段違いで、めちゃめちゃ緊張したよ。
術中、全身汗だくで危うく術野に汗が落ちるところだったのに、
看護士さんが拭いてくれるまで全く気づかない始末。
そこで一息ついてちょっと落ち着くことができたんだけどね。
森熊先生の指導の下、あっという間の2時間だったね。
僕には、話を聞いているこの2分間こそがあっという間に思えた。
ブラックボックスの中身を覗いているような心地だったからだ。
そこへ、まだ手術着のままの森熊先生が顔を出した。
お。今日のMVPがいるな。お疲れ様。
ありがとうございました!
川口先生、どうでしたか? 今日の手術の感想は?
最後までやりきったという達成感は大きいのですが、
それ以上にああすればよかった、こうすればよかったと思うところがいっぱいです。
絶対に次はもっとうまくやってやろうと、さっきまで反省していたところです。
見事に模範的だ。
確かに指摘できる箇所はいくつかあったけど、初めてにしては上出来だよ。
普段の練習のたまものだね。本当に今日はよく頑張ったと思うよ。
ありがとうございます。
点の辛い森熊先生にここまで褒められるなんて、川口、さては模範塾生だな?
勘弁してくれよ。いや、本当にまだまだなんです。
これからも特訓しなくちゃ。
川口先生の机の上には、何枚も手術の記録画があり、反省点だろうか、
小さな文字でびっしり書き込みがされていた。
こういう点も教授が言う「準備ができている」につながるのだろう。
今日は川口を囲んで祝賀会か?
もちろんですよ。初執刀医の先生にみんなごちそうになりましょう。
そうそう今夜は僕が、ってオーイ!僕のお祝いですよー。