鹿児島大学大学院 医歯学総合研究科 先進治療科学専攻 外科学講座 消化器外科学
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特選コラム

外科医は、思いやりにあふれているものの集まり。

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人は、いったい、他者に対してどこまで思いやりを持てる存在なのか?
わたしが、そのことを大きな驚きの中で教えられたのは、タイ、カンボジア国境での戦場でした。
 一九八〇年六月、ジャーナリストとして、タイ国境に逃れたカンボジア難民の取材に当たっていたわたしは、突然、戦闘に巻き込まれました。(中略)
怖さのあまりに体はこわばり、どうすれば戦場を脱出できるかとの思いに駆られましたが、かろうじて踏みとどまれたのは、前日出会ったばかりの、カンボジア難民の幼女の姿がとっさによみがえってきたからでした。コーンちゃんという三歳のその女の子は、国境線上のノンチャンに設けられた難民キャンプの、重度栄養失調の子供ばかりを収容したテントの中にいました。竹を組んで急ごしらえしたべッドの上では、手足は枯れ木のようにやせ衰えているのに、重い栄養失調の特微で、おなかだけは異様に膨れ上がっている五歳以下の子供が、四十人近く手当てを受けていました。

 わたしが病室代わりのテントを訪ねた時は、ちょうど一日一回の食事時で、子供たちは、アルミの食器に入れてもらったおかゆをがつがつとすすっているところでした。すると、早めに自分のおかゆを食べてしまった二歳くらいの男の子が、竹べッドから降りてコーンちゃんのほうにやって来ました。やって来るといっても、その子も自分の足では歩けないほどやせこけていて、べッドからべッドへ約五メートルほどを伝い歩きして近づいて来たのです。
 いったい、何が始まるのだろう。ぼんやり見守っていると、コーンちゃんが手ですくったおかゆを、ひょいと男の子の口もとに近づけ、食べさせてやったのです。(中略)
 自らも重い栄養失調であり、しかも乏しい食事を、わずか三歳の幼い子供が他人に分けてやる。難民キャンプという、ひとつの極限状況の中で、たった三つの子供が他人への思いやりを失わずにいる。「もし自分が同じ境遇に置かれていたら、分けてやるだろうか。きっとできないだろうな。」
 わたしと写真記者は、そうことばを交わしつつ、人間には本来的に他者への思いやりがあることを、きらりと光るようにかいま見せられ、驚きそして感銘を受けたのでした。


(引用:「平和を築く~カンボジア難民の取材から~」 荒巻裕)

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これが、私が医師を目指したきっかけでした。
長男として生まれ育ち、我慢という言葉を知らず大きくなった当時小学5年生の私には衝撃的な内容でした。





◾︎自己紹介

 2021年度、入局しました夛田宣裕と申します。卒後9年目です。
 私は2013年に沖縄県の琉球大学を卒業し、初期研修を京都府の宇治徳洲会病院で行いました。
徳洲会病院はご存じの通り、24時間365日いっさい救急を断らないスタイルの病院でした。
救急車搬送年間8000台、3日に1度の救急当直業務で常に睡眠欲との戦いでしたが、今の自分の医師としての基礎はここにあります。
ただ、忙しさ・睡眠不足の極限状況では、人は思いやりを持てなくなってしまう、そんなことも感じた怒涛の2年間でした。

その後、地元の長崎県のみなとメディカルセンター(旧長崎市立病院)で研鑽を積みました。
レジデントとして3年間、ここでは腹腔鏡手術の修練をさせていただき、消化器外科医としての原点を築きました。

 そして、卒後6年目からの3年間、ご縁をいただいた鹿児島医療センター消化器外科で勤務しました。
消化器外科に従事して5年がたつころ、このままでいいのだろうかと立ち止まる瞬間が多くあり、卒後9年目の現時点で鹿児島大学消化器・乳腺甲状腺外科に入局させていただきました。





ポンぺ医師の言葉➝ 
自分への言葉➝ 
外科医を志ざす人への言葉


 私は小学校からバスケットボールをはじめ、中高と勉強そっちのけで練習しました。
高校時代はウィンターカップ、インターハイともにベスト8で敗れましたが、
バスケットボールは私の人生の中で、胸を張って一生懸命に打ち込んだものでした。
 当然のことながら、そのツケも回り、1度目の大学受験はセンター試験の段階で医学部受験は難しい成績でした。
 浪人の2年間、地元の長崎で過ごしました。


 モチベーションを上げるため長崎大学医学部の図書館を利用することも多々あり、
医学部の講堂で、人生二度目の衝撃的な言葉に出会いました。

「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。
ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のもの。
もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい。」


 幕末に来日し、オランダ医学を伝え、長崎大学医学部の前身となる西洋医学校を立ち上げたオランダ海軍軍医のポンぺ医師の言葉でした。


 浪人2年目。
がけっぷちに立ち、焦燥感に支配された自分を選別する言葉だと感じました。
そんな言葉を、外科医となった今の自分にも常に投げかけ、医師であることを継続していいのか、自問自答して過ごしております。

 我々医師は、ひとたびこの職務を選んだ以上、患者(病める人)に対して一人で向き合わなければいけないことも多々あります。
むしろ、その方が多いと思っております。
 さらに、極限状況・迫られた環境のなかでは、その患者は自分の能力次第ですべてが決まるといっても過言ではありません。
特に外科医は、皆一度は 一筋縄にはいかない恐ろしい経験をしてい(ることと思い)ます。

 だからこそ、外科医は周りにいる仲間を大事にする集団であり、
困った人のそばで手を差し伸べる、思いやりにあふれているものの集まりだと思います。
すっと手当てができる思いやりにあふれた外科医には魅力があります。外科医は最高です。




手を差し伸べられない悔しさと矛盾


 私事だが、昨年 祖母が2人なくなった。ともに95歳を過ぎていた。


一人は癌で、もう一人はコロナ感染が原因であった。
 医師になって初めて身近な人を亡くした。
距離や社会的理由にはばまれ、手当てをすることはおろか、何もできなかった自分がいた。
 人間が人間の生き死にを自由にしようなんておこがましいのかもしれないが、本来であれば、せめてそばにいて、手を握ることくらいはできたはずだ。
 何もできない、許されない、こんな環境は誰も想定していなかっただろうが、非常に悔しく、無力感でいっぱいであった。

  病気というものは容赦がない、思いやりがない、冷酷なものだ。
それに立ち向かうために、我々は一生懸命になる。
3歳の少女が極限状況の中で見せてくれた、命を懸けた人間の究極の思いやり。

 命を懸けて手を差し伸べる少女のように、私にも もっと一生懸命にできることがあるはずだと思う。
これから、よりいっそう、外科医としての職務に、そして大切な人と過ごす人生にも、一生懸命でありたい。

冷酷なコロナ時代は続きますが、外科に、外科医に、興味を持ったときは、ぜひ手を差し伸べてみてください。

 





 

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