レポートの提出に追われ、午前中の嵐のような忙しさがウソのように落ち着き、
やっと一息つくことができた午後2時。もうお腹がすいてたまらない…。
遅めのランチで食堂へ。食堂に置かれたテレビからは、
南イタリアで暮らす日本人の暮らしを紹介するテレビ番組の再放送が流れている。
アドリア海で穫れた新鮮な海の幸がたっぷり入った本場のパスタ。
目の前にある300円のランチとの落差はあまりにも大きく、
さっきまでの食欲がどこかに消えそうになる。
その時背後から聞き覚えのある声が聞こえた…
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イタリアかぁ~。懐かしいな~。
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決してイケメンとは言えないが、
少し背が高く、 庶民派のイメージの尾口先生の口から響く、
ゆったりとした少しだけ違和感のあるバリトンボイス。
まるでイタリア人が故郷を懐かしむみたいなトーン。
落着いた口調からか、何故かまったくイヤらしく聞こえない。
先輩・後輩問わず面倒見の良さで知られている尾口先生。
“尾口マジック”と呼ばれる安心感がある。
これが医局で一・二を争うモテメンの魅力か。
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お疲れ様です!尾口先生も、これからランチですか? |
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そうなんだ。今度発表する論文の最終チェックをしていたら、
ランチ食べ損なっちゃって。 |
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ここのランチってさ、品数多くていいよね! |
ん…?
僕と同じランチのはずなのに、おかずが一品多い…
食堂のお姉様方からのウィンクを見逃さなかった。
モテメンへのあきらかなエコヒイキをまざまざと見せつけられる。
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そう言えば、尾口先生の留学先ってイタリアでしたよね。 |
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そうそう。
ローマからは遠く離れた地中海に浮かぶ島の大学だったけどね。 |
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イタリアでの臨床研究ってどうでした? |
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やっぱりイタリア語が話せないと難しいですか? |
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うーん、そうだね。研究に関して言えば、
ある程度の英語力と基礎研究・臨床研究における知識があれば
なんとかなるよ。 |
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まぁ、相手も同じドクターだしね! |
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…あっ、患者さんは英語がほとんど通じないから、
病棟でデータを集めないといけない時はちょっと困ったよ。 |
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そうそう、イタリアにも日本と同じような研修医制度があってさ、
データ収集に困った時、研修医のみんなに助けてもらってねー。 |
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なつかしいなぁー。 |
こんなに爽やかに言われてしまうと、
外国での貴重な経験もまるで小学校1年生の足し算のように簡単に聞こえて…
なんだかかっこいい…。
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他にも、ドイツや韓国とか、
世界各国の大学・研究室に留学できるチャンスがあるみたいだしね 。
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留学かぁー。
今まで留学について全然考えたことがなかったんですけど、
先生の話を聞いていたら、なんだか興味出てきますね! |
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あっ、でも、
留学って狭き門なんですよね? |
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んー、そんなことないよ。
留学するための試験なんかは特にないしね。
行きたい大学や研究室を自分で探したらいいし、
紹介してもらってもいい! |
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ただ、自分がやりたいことを一生懸命に追求することが大切で、
海外でこれを究める!っていうハートと情熱が一番大事だと思うよ。 |
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あとは、留学での結果を論文としてきっちり書き上げることが最も大事! |
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やっぱり海外で得た技術・知識・ノウハウなどを教室へ持ち帰って、
後進の指導にあたったり、自分でさらに追求していくことが
留学する人に求められるよね。 |
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まぁ…留学を経験した先輩として言わせてもらうと…
そういう気持ちを持たないで、海外旅行的な気分で行く人は…
留学する資格はないよね! |
留学を甘く考えていた僕の気持ちを察したかのように、
もともとはっきりとした尾口先生の瞳が、一瞬より大きくなった。
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そっ、そうですね。
留学するためには究めたいっていう情熱はもちろん、
海外で得た経験をより広く活かさなきゃダメですよね…。
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やっぱり、尾口先生のように独身のうちに留学した方がいいですか?
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奥さんやお子さんとご家族で一緒に行かれる先生もいらっしゃるし、
そこは関係ないんじゃないかな。
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えっ!桐野くん、結婚するの?
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いやいや、結婚も何も、まだ彼女すらいないですよ… |
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へぇー、桐野くんモテそうなのにねー。 |
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尾口先生にそう言われると、
お世辞だとしてもすごくうれしいですよ…
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そういえば、先生にとって、留学した一番のメリットって何ですか?
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やっぱり、言語や意志が十分に通じない環境の中で
いろいろな知識や経験を積めたのがとても大きいかなー。 |
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日本では当たり前だと思っていたことが、海外ではまったく違ったり…
より広い視野に立てるようになったかなぁ… |
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あと、同じ志を持つ世界各国のドクターと出会えるのは最高だね!
今でもメールで連絡をとりあってる仲間もたくさんいるよ! |
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自分の情熱とやる気さえあれば、
これからの人生にかなりのプラスになるだろうね! |
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なるほど…。
そう言われても、まだまだ想像がつかないですね。
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あ〜。あと、今でも思い出すのは食事だね。
やっぱり本場で食べるパスタやピッツァは格段に違うよね! |
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あっ、そうそう。
僕がイタリアで鍛えた舌で探した、
女の子が喜ぶイタリアンのお店を教えてあげるよ。
こっちにもけっこういいお店あるんだよね! |
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それはぜひ…知りた…
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(トゥルルルル!)
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呼び出し…。あっ!江良井教授だ…!
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先生、今度、留学の話もっと聞かせてください!
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(と、女の子を絶対落とせるイタリアンのお店の話も…)
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いいよ、いいよ。とりあえず早く出たら。 |
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その話は私が代わりに聞いておきましょう…。
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いつからいたのか、後ろから半田先生が振り向かずにしゃべりかける。
なんだかニコニコしているのは僕が留学に興味を示したからなのか…?
留学の話。
あと、おいしいイタリアンの話を聞きたいのをグッと我慢。
慌てて通話ボタンを押す。
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『桐野くん、今どこ?』
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あっ、はい。今、食堂でランチ食べてました。
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『ちょっと話したいことがあります。今、研究室に来れる?』
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話したいこと?すぐに来れる?…
一体、何だろう?
すっかり冷えたみそ汁を、一気に飲み干す。
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『そうそう、桐野君。野球、好き?』
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野球?なんだか、いつもと違う教授の声に、
ちょっととまどいながらいそいで食堂を出ることにした。