なんでもない道でつまづいた。
たとえじゃない。
学食で遅めのランチをすませた僕は、資料を読みながら歩いていた。
油断していた僕が悪い。
「うぉ」と情けない声を漏らし、倒れこみそうになるのをこらえた。
続けざまに軽いスキップを付け足して、ごまかす。
「ナイス・スキップ!」
誰かが、小気味よい“合いの手”を入れてきた。
見られたくないことは、たいてい見つかるものだ。僕は耳が熱くなるのを感じた。
声の方向を向くと、中年の男が笑顔でこちらを見ている。
つまづいたのを見られたことより、
スキップをして取り繕おうとしたのを見られたのが恥ずかしい。
「どちら様ですか?」と頭に浮かんだものの、僕の口をついて出たのは違う言葉だった。
「ありがとうございます」
これが僕と半田助教との出会いだ。
いやあ、失礼しました。
桐野君、はじめまして。半田です。
いえ。でも、なんで僕の名前を?
田中先生に名前を聞いててね。
ゲカイチって聞いたことあるでしょ?
医局のリクルーターとの接触は、これがはじめてではなかった。
ゲカイチという単語はしばしば耳にしていたし、
それが第一外科の俗称で、
そこに『ハンダ』なる人物が学生ハンターとして暗躍していることは、 耳にしたことがあった。
外科には、厳しくて忙しいイメージがあったので、
調べるのをちょっと後回しにしていたところがある。
だから、彼の名が本名なのか、
面白半分に狩人になぞらえただけなのかなんて知るはずもなかった。
僕は今、ハンターに狩られようとしているんですね?
人聞き悪いなあ。
見どころのある若者と未来を語ろうとしてるんだよ。
狩人がおどけて言った。
茶目っ気たっぷりにウインクでも飛ばしてきそうだ。
しかし、彼が僕のスキップを見逃さなかったように、
僕は彼のまなざしにほんの少し本気が混ざったのを見逃さなかった。
やっぱり狩るんじゃないですか。
はっはっは。
桐野君は、いい目をしてるね。ちゃんと悩んでる。
悩んでるってほどじゃないですよ。
もう決めてるの?
まだ決めてません。
選択肢が多くてちょっと時間がかかってるんです。
いろんなチャンスがあるのに、
生きられる時間は一つって酷だよなあ。
その時、飲みに誘われたが、断った。
それからも何度となく半田先生には声をかけられた。
そうするうちに、立ち話の時間が徐々に長くなっていった。
僕が失恋して落ち込んでいたとき、声をかけてきたのもまた彼だった。
先生は最近、失いそうなもの、何かありますか?
まあ、嫁の愛情かなあ。最近はね、
もう催眠術で取り戻そうかなと思ってる。
僕も先生みたいなたくましさがほしいですよ。
そうだ、こういう話は女の人に話を聞いてもらったほうがいいぞ。
お茶しようお茶。
なんでもとびきり美人の先生に会わせてくれるというので、
僕はノコノコと先生の後について行った。
そして休憩スペースのラウンドテーブルに着いたとき、
「山本モナ似の美人」が座っているはずの席に座っていたのは、江良井教授だった。
喜例先生はさっき急用で出て行かれたよ。
私も準備することがあって、もう少しで出なくちゃいけないんだけどね。
江良井教授は柔和な印象で、歳は50代半ばと見えた。
お茶もない、美人もいないラウンドテーブルの脇に、気をつけ姿勢の僕。
半田先生が、僕の肩にポンと手を置く。
未来のホープ、桐野くんです。こちら江良井教授。
もう先に言っておこうかな。
ようこそゲカイチへ。
教授はそう言うと、いたずらっぽい微笑みを投げかけてきた。
悪い気はしない。
そのとき、後ろから女性の声がした。
大丈夫でした。
急患続きで現場がバタバタしちゃってたみたいなんですけど、
新人君が頼もしくなってきてるから問題ないって、師長が言うものだから。
連携がうまく取れてきてるようだね。
あ、こちら喜例先生。
山本モナ似の美人が僕に微笑みかける。
喜例です。はじめまして。
ぜんぜん悪い気はしない。
喜例先生は、外来医長としてシステムの改善に取り組んでおられるんだよ。
多くの患者さんに“ありがとう”を言ってもらうためには、
いろんなところにメスを入れなくてはならないんだ。
外科だけに。
うん、外科だけに。
げ、外科だけにですね。
・・・。
僕らに奇妙な連帯感が生まれた気がした。
あの、ぜんぜんうまくないと思いますよ。
やだなあ、喜例先生。冷静なんだからもう。
外科には忙しくてハードなイメージを持っていた。
しかし、実際の空気に触れるのは初めてだった。
在院日数も病院全体の努力で改善しているらしい。
江良井教授は、コミュニケーションを改善したのだと説明した。
はたしてどんな試みがなされているのだろう。
僕は、ゲカイチの現実をのぞいてみたいと思いはじめていた。