1774(年安永3)年、藩主・島津重豪の命で建てられた医学院は1869(明治2)年、西洋学校と改称され、西洋医学の導入が鹿児島で樹立された。指導者はイギリス人のウイリアム・ウイリスで西郷隆盛、大久保利通に招かれ、西洋学校で活躍した経緯がある。
県立鹿児島医学専門学校開設。附属病院外科学講座が開設され、頭部、胸部、腹部、四肢血管のあらゆる外科疾患を対象として診療が行われた。しかし、戦火の中、石田教授は戦災死された。
当時の鹿児島市は、空襲により廃墟と化し、附属病院も全焼し、子どもたちが疎開していた焼け残った盲唖学院に場所を借りて、仮診療を行っていた。
当時の手術範囲はすこぶる広く、結核、腹部手術、頭部、血管など、゛頭の先からつま先まで、表も裏も”の主義であった。教授就任当時の医局員は10名足らずであり、コッヘル10本、鉗子数本、板張りの手術室、バラック病室という環境で奮闘された。内山教授は食道癌の再建臓器に胃管を用いた後縦隔経路再建術を、また食道アカラシアに対するHeller-内山法を考案された。
癌研外科から赴任され、外科の主たる診療の対象は癌に焦点が絞られた。癌の外科治療体系の標準化がなされ、主病巣切除と広範囲リンパ節郭清による根治切除の概念が導入された時期である。西教授は癌研副院長として転出された。
東大から赴任され、根治的治療法から適正な治療への変遷の時期である。患者の延命と同時に術後QOLを十分に配慮した治療選択が行われるようになった。この重要な時期に風邪の発熱をおして理事会出席のため、上京され、敗血症で倒れられた。まさに殉職であった。
島津教授の急逝という悲劇を乗り越え、昇任された。個々の患者に応じた適正な治療法の選択のために、臨床所見に分子生物学を取り入れ、新たな治療戦略を展開された。2007年鹿児島大学理事に就任。
教室より准教授を経て教授に就任された。拡大手術、合理的手術、縮小手術の術式と、以前より取り組んできた微小転移、癌の悪性度、放射線・薬剤感受性など基礎研究結果の統合を目指した。
第3代内山八郎教授と同じく九州大学より赴任された。臨床面では高度進行癌に対する外科的治療を基軸とした集学的治療と、低侵襲な内視鏡外科手術やロボット支援手術を推進している。また研究面では臨床の疑問点をテーマとし、成果を臨床へフィードバックする体制構築を進め、国内外へ情報を発信するとともにグローカルに活躍するacademic surgeon育成にも力を入れた教室づくりを目指している。